南青山3-1-34 五光ビル

南青山の246沿い。
昭和39年のオリンピック時に建てられたアパートがあります。
五光ビル。501号室、521号室、523号室が私の職場でした。
もう10年以上前のことです。
制作会社で働いていた頃のこと。

このビルには、1階に大丸ピーコックが入っていて、
夜遅くまで開いてるので何度も買い出しに行きました。

御婦人たちが犬をつないで店の前で待たせいていて、
その犬たちの種類がブルジョアを感じさせるのでした。

そして、この思い出のビルは、
2020年オリンピックとともに建て壊されます。
新年号が発表される前の日、3月31日。
最後にこのビルに入れる日。
写真を撮りに・・・というよりも、お別れに行ってきました。
周りのビルも新しく変わっていて、変わらないのは外苑飯店くらい。
オフラインに煮詰まると夜中に通ったラーメン屋も、
立ち食いそば屋ももう無くなっていました。

 

ここ。ここで、私は最後に5本のラインのテレビを受け持ち、
オフラインして寝る場所がないので
台所に毛布を敷いてゴミ箱の隣に寝ていました。
臭かったな。
制作会社なんてそんなものだけど、だけどなんであんなに
がんばれたのかな・・・・映像好きだったのかもしれない。

246を見下ろす部屋。
昔は、パソコンじゃなくてオフライン機でテープ編集していて
ディレクターが作ったものをデータで塗り絵するときに、
この音どっから拾って来たんだろうと・・・膨大な素材を見直す
そんなどうしようもない時間をこの部屋で費やした。
大事なことは聞いても教えてくれないから自分でやるしか無かった。

へとへとになると屋上にサボりにきて、遠くのビルを眺めて
私が消えてもこの番組は続くだろうと思うと
ぜったい負けないと思って、なんだかわからないことで
自分を奮い立たせていました。
団地のようなアパートで、トイレとシャワー室が各階についていて
住人のおじさんとかが白いタンクトップと股引きでウロウロと
徘徊しているような情景も、いつからか見慣れた。

ある時、孤独死したおじいさんの遺体が運ばれているのを朝早く
見かけたことがありました。
家の中はゴミだらけのようで。

何気ない風景だったので、制作会社のときの写真は残っていなくて
とても後悔している。
この後悔が、いくつもの時間の束となって私の中に存在するので
私はずっと伝えていかなくてはならない。

日常はいつも もろくて壊れやすく
突然終わることと 隣り合わせの
何よりも繊細な被写体だってこと。

できるなら写真で、もしくは言葉で
伝えていかなくてはならないと強く思うのです。
さようなら 五光ビル。

写真・文 鈴木さや香

  • Comments ( 3 )
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  1. by 安田将人

    昔からこのビルに住んでいたものです。昭和51年に生まれ5年間ほど住んでいました。
    取り壊されるということは知ってましたが自分が生まれ育った場所がなくなってしまうのはなんとも悲しいです。
    最後の写真が見れて小さかった時を少し思い出しました。ありがとうございました。

    • by shashintokurashi

      安田様
      貴重なコメントありがとうございます。お生まれになった場所は、どこかで原風景になっているものですよね。
      東京はビルが壊されすぎているのもあり、悲しいとすら思えないとよく言われます。
      悲しいと思える方に見ていただき、うれしいです。ありがとうございました。

  2. by 印牧善雄(かねまき よしお)

    住宅公団のいわゆる(当時そう呼ばれていた)「下駄ばき住宅」=「五光ビル」60年前設計に携わりました。故あって、今回このビルの今が知りたく、ネット検索していたところ、鈴木さや香さんの記事に出会い昔を思い出し、懐かしさとともに、このアパートメントの空間がが醸し出したに違いないと想像していた世界が、まさにそのようであったと読み取れ、感慨深いものがあります。鈴木さん、五光ビル、ありがとう。

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