さようなら東京・令和編【谷中】

さようなら東京・令和編【谷中】

其の一 仏教と芸術と猫が行き交う「台東区谷中」
写真・文=鹿野貴司

2度目の五輪を控え、東京は変革のときを迎えている。とりわけ大きく姿を変えつつあるのが、いわゆる下町といわれる23区の東側だ。懐かしさと新しさが交差するエリアを、写真家・鹿野貴司が記録する。

「谷根千」と称される根津・谷中・千駄木は震災にも戦災にも遭わず、奇跡的に昔ながらの街並みが残っている。その町でタウン誌の元祖といわれる『谷根千』が産声をあげたのが1984年。とりたてて観光名所のなかった町で文化や伝統に光を当て、下町のテーマパークへと変化させた。

しかし根津や千駄木には高層マンションが増え、『谷根千』も平成21(2009)年に休刊。それでも谷中は独特な進化を遂げている。代々続く老舗も多いが、一方で空き家をリノベーションし、町の雰囲気にマッチした品物を扱う店も増えている。手作りの工芸品、パン、コーヒー、古書。間違っても女子高生向けのタピオカ屋はない(間違ってあったらゴメンナサイ)。

周辺に魅力的な店が増えたことで、谷中銀座商店街やよみせ通り商店街にも人通りが増えた。そして最近は外国人観光客で賑わっている。アジア系で賑わう浅草と違って、谷中はとりわけ欧州系と思しき観光客が目立つ。数十年、数百年変わらない街並みに身を置く欧州人に、高層建築が少なく、小さな商店の多い谷中は何か響くものがあるのだろう。

谷中といえば猫の町。犬はどんなに吠えても、ここでは猫に太刀打ちできない。

「カヤバ珈琲」は昭和13(1938)年開店、建物はさらに古く大正5(1916)年の築。
以前は地元のおじさんたちが集う昭和レトロな喫茶店だったが、店を切り盛りしていた姉妹が高齢で店じまい。
数年間空き家状態が続いていたが、モダンにリノベーションして今や行列のできるカフェに。


喫茶店時代に人気だったタマゴサンドは、姉妹からレシピを受け継いで今も健在。

 

「嵯峨の家」は大正3(1914)年創業という煎餅屋さん。国産米を使い、炭火で煎餅やおかきを焼く。
「今どき炭を使うとこも珍しいし、ましてやおかきを手作りなんて、東京にはうちしかないと思うよ」と主人。

 

江戸時代に上野・寛永寺が創建されると、その支院が谷中に立ち並ぶようになった。さらに明暦の大火などで江戸の中心部から多くの寺院が移転。その街並みが震災にも戦災にも遭わず、高度経済成長、バブル、今度の五輪、幾度となく押し寄せる開発の波も乗り越えて奇跡的に面影を残す。恐るべし寺町の法力。そんなわけで谷中には現在も60以上の寺院が立ち並ぶが、宗派別にみると圧倒的多数なのが日蓮宗。所在地が「台東区谷中」の日蓮宗寺院だけで37か寺ある。とりわけ大きな伽藍を有するのが瑞輪寺だ。幼い頃学問を教えてくれた日新上人へ、徳川家康がお礼として日本橋馬喰町の土地を与えたのが由来。それが谷中に移って今に至る。周辺は古き良き寺町の雰囲気を残しており、都心の市街地とは思えないほど空が広い


瑞輪寺のそばにあるヒマラヤ杉は、谷中のシンボル。伐採するという噂もあったけれど、しばらくは現状維持の模様。

お寺の門に黒い影が。近寄ると、首輪はないけれどとても上品な野良だった。

 

その門前の浄延院というお寺の奥に、周辺でひときわ高い鉄筋コンクリート5階建ての建物がある。立正大学仏教学部宗学科の3・4年生たちが暮らす日蓮宗立谷中学寮だ。昭和46(1971)年の創立以来、全国の日蓮宗寺院から子弟が集い、花の都大東京を謳歌する余裕もなくここで修行生活を送ってきた。今では親子2代にわたる寮生も多く、浄延院住職でもある菅野龍清寮監の息子さんも、同じ敷地にある自宅を離れて寮生として暮らしている。寮監というのは寮のいちばん偉い人。門限までに戻ってこない寮生がいると、竹刀を持って待っている…という雰囲気ではなく、朗らかで寮生にも冗談を言う優しい先生なのだが、厳しいときは本当に厳しい。僕はその様子を結構見ている。

なぜ見ているのかというと、僕がカメラマンとしてもっとも長く、そして深くお付き合いをさせていただいているクライアントが日蓮宗だからである。総本山・身延山久遠寺から始まり、各地の寺院や宗自体のお仕事もさせていただいているが、関係するお坊さんはここのOBが多く、それが縁で年末の霊跡行脚にも6回ほど同行させていただいている。これは日蓮さんにゆかりの深い身延・房総・伊豆・佐渡の4か所を、大学の4年間で一巡する行事。一泊二日で数十kmを行脚する。ただ歩くだけでなく、手にした団扇太鼓を叩きながら、全員同じリズムで南無妙法蓮華経を唱える。冷たい風や雨に阻まれるのは当たり前。佐渡では数十年ぶりの大雪に見舞われたこともあった。そして行脚中の寮監は、しつこいようだけど本当に厳しい。

午前6時過ぎから始まる浄延院の朝勤。寮生はほぼ全員が出仕する。

朝勤は寮生にとってお経を学ぶ場。
いくら経文を諳んじても、速度や抑揚、声の高低などは先輩の指導なしには身につかない。
大学の授業が早く終わる日や土日には、夕勤にも出仕する。

 

朝勤の後は寮母さんが作る一汁一菜、ご飯多めの朝食を摂る。そして私服に着替え、山手線に乗って大学へ。
ちなみに夕食はごくごく一般的な料理が並び、それでも足りない学生は言問通りのセブンイレブンへ向かうとか。
「ひと昔の谷中はコンビニもファミレスも遠かったですからねぇ。今はいい時代ですよ」と菅野寮監が笑った。

月に2回、寮内で書道教室もある。お坊さんに書は必須。
先生のお手本を真剣に眺めるの図。

 

日蓮宗は仏教諸宗派の中でも体育会系のノリがあり、お坊さんはとにかくフレンドリー。かなり偉い方もフレンドリー。音楽に例えるとパンクともよくいわれる。そもそも宗祖の日蓮さんは、いい国作ろう鎌倉幕府に「このままじゃこの国はダメになります!」とモノ申す、異色の反体制派。鎌倉の街角で堂々と幕府の批判をして、伊豆や佐渡に流された。もし日蓮さんが言論や集会の自由を保証されている今の時代を生きていたら、SNSを駆使して新宿や渋谷に人を集め、庶民の代弁者として人気を集めていたかもしれない。

そんな日蓮さんの志を継ぐ谷中学寮だが、悲しいことに現在の3年生が最後の寮生となる。少子化で学生が減ったこともあり、現在1・2年生が暮らす杉並区・妙法寺の堀之内学寮に統合されるのだ。寮生は浄延院のお勤めに出仕し、正しく、そして大きな声を出すよう、寮監や副寮監から厳しい指導を受ける。そのため朝夕には一帯にお経の音が響き渡る。「谷中からお経が聞こえなくなるのが寂しいですねぇ。でも学寮がなくなっても、何らかでお経の聞こえる谷中にしますよ」と菅野寮監は語った。

夏と冬の朝は、屋上で水行を行う。
周囲にここより高い建物がないので、下帯(ふんどし)をしない寮生がほとんど。

 

その水行をしていた屋上が、ある夜は即席ビアガーデンに。厳しい修行生活が続くだけに、ときどきこのような場も設ける。
ちなみに手前の輪では「人狼」というスマホゲームが行われていて、ルールのわからない僕も参加させてもらっ
たのだが、
訳がわからぬまま勝ってしまいました。スミマセン。

 

居室をちょっと覗かせてもらった。
今は3年生・4年生で部屋が分かれているが、創立当初は1年生から4年生までが
ひとつの部屋に同居。
当然ながらピリピリしていたという。部屋にあるのは机と本棚、そしてお経本や仏教書ばかり。
アイドルのポスターも貼られていなければ、マンガやエロ本も見当たらないが、寮監いわく「今はスマホで見られますから(笑)」。

 

折しも谷中は寺町であるとともに、芸術の町としても活気を集めている。目と鼻の先には東京芸大があるし、古い家屋にはアトリエやショップとしての需要もある。たとえば東日本大震災後、芸大生のアトリエ兼シェアハウスだった木造アパート「萩荘」が、老朽化で取り壊されることになった。そこで住人たちがさよならイベントを開催したところ、3週間で約1500人が訪れ(その中のひとりは僕)解体は白紙撤回。モダンなギャラリー・カフェとして生まれ変わった。谷中にはそういった芸術を理解してくれる土壌があると思う。

その土壌を耕しているのが、クマイ商店の代表取締役・熊井芳孝さん。谷中の各寺院へ畳を納めているクマイ商店は、寛永年間(1624~1645)創業という谷中きっての老舗だ。熊井さんは本業の傍ら、谷中でギャラリーを開いたり、アート関連のイベントを立ち上げてきた。熊井さんにはいろいろ興味深いお話も伺ったのだが、それを綴ると長編になってしまうので、続きはいつかの谷中編パート2で。

熊井さんが「浅尾さんを取材するといいよ」と、正確には隣町の上野桜木になるが、創業明治21(1888)年の浅尾拂雲堂さんを案内してくださった。
「拂」は中国語で筆。日本で初めて洋画の筆を作ったとされ、名だたる洋画家がここの
筆を愛用した。
その後、額縁の制作に転業。4代目にあたる浅尾空人さんが、5代目となる息子さんやお弟子さんらと
額縁を作る。

80歳を過ぎた浅尾さんは、天皇陛下のお住まいに飾る絵画の修復も手掛けた「歩く宮内庁御用達」。
額装する作品に合
わせて、ひとつひとつの部品を手作りしていく。額縁は既製品が増え、オーダーメイドで制作するのは日本でおそらくここだけという。

 

撮影を終えて帰る途中、建てつけが悪いガラス戸を、おばあさんが全身で閉めていた。谷中に写真の神が降りた。

 

 

とにもかくにも五輪まで1年を切り、谷中の静けさをよそに東京のあちこちで再開発が進んでいる。五輪後はバブルが弾けるなんていわれているが、それでもやはり開発の波は止められないだろう。でも谷中は最後の最後まで、その波にときには抗い、またあるときはさらっとかわすような気がしている。

<プロフィール>
鹿野貴司(しかのたかし)
1974年東京都生まれ。多摩美術大学映像コース卒業。さまざまな職業を経て、フリーの写真家に。広告や雑誌の撮影を手掛けるほか、ドキュメンタリー作品を制作している。
日本大学芸術学部写真学科や埼玉県立芸術総合高等学校で非常
勤講師も務める。写真集に『日本一小さな町の写真館 山梨県早川町』(平凡社)など。
http://www.tokyo-03.jp/

<お知らせ>
これまで玄光社ウェブサイト「CAMERA fan」で連載していた『さようなら東京』を、平成から令和への代替わりを機
に当サイトで引き続き連載することになりました。バックナンバーは下記の「CAMERA fan」各リンク先をご覧くださ
い。
其の七・鐘ヶ淵~京島あたり https://camerafan.jp/cc.php?i=747
其の六・葛飾区柴又 https://camerafan.jp/cc.php?i=746
其の五・墨田区東向島 https://camerafan.jp/cc.php?i=740
其の四・北千住あたり https://camerafan.jp/cc.php?i=727
其の三・江東区森下あたり https://camerafan.jp/cc.php?i=720
其の二・台東区浅草 https://camerafan.jp/cc.php?i=704
其の一・葛飾区立石 https://camerafan.jp/cc.php?i=694

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