西小山にある フルーツパーラーたなか

西小山にある フルーツパーラーたなか

学生の頃と言うともう20年以上前のことです。通ったフルーツパーラーたなかさん。しばらくぶりに訪れると、おばあちゃんが無愛想に「はい、いらっしゃい」といいました。あまり変わらないお店の感じからは、営んでいるおじいちゃんとのお二人が健康であったのだろうなと思いました。
昼は12時位から、夜は8時まで。
お二人は定休日以外はほとんどお休みすることなく、このお店を切り盛りしていました。
私が「昔、よく来ていたんです。でも道路拡張でお店がなくなるっていうのを聞いて」というと「あ、そう」とまた愛想なく返事が返ってきました。写真を・・・といいかけて、違うなあとやめて、フルーツパッフェ(メニューにそう書いてある)をしっかり味わって帰ってきました。
それが去年の今頃です。
それから何度も通って何度同じように話しても「あ、そう」といつも同じ返事でした。けれども幾度目かのとき、店内には誰も居なくて、またフルーツパッフェを食べながら何気なく「どのくだものが好きですか?」って言うと「どれって言われてもね」「時期のものだね」と返ってきました。だから、嬉しくなって「写真、撮っていいですかね」っていうと「はい、どうぞ」と返ってきたものはまた無愛想でした。
負けじと「なんで果物屋さんになったんですか。」というと「このあたりは八百屋は多かったから。果物屋はなかったし。だから。」と言いました。開業したのは50年以上前だそうで、もうそんな何十年も前のこと覚えていないとジロっと一瞥されてしまいました。でも、それからぽつりぽつりとお話をしてくれました。果物屋は腐るのが早い、だからそんな手間のかかること、まわりでは誰もやらなかったからはじめたと言いました。
フルーツパーラーたなかというくらいで、店内でフルーツを使ったかき氷やパッフェが食べれて、外では果物を買えるスタイル。これは開業当時から変わらないらしいです。生ものは3日休めない。だからお店を休んで旅行に行ったこともない。これだけ果物があるとどれかはダメになってしまう、それを娘たちと一緒に食べるのが日常だったとのこと。とくにりんごは食べない日はなかったといいます。
朝は7時半くらいに市場におじいさんが行って、11時頃スクーターに積めるだけ積んで仕入れて帰ってきます。その姿は近所の人達もよく見ている光景でした。あれは、すごい数の箱をもう手品のようだよねと、前に寿司屋のおやっさんも話していました。
そのころ、おばあちゃんは「オリンピックやるまでは続けるけど」といっていたけれど、3月31日、新年号発表を前にお店は閉じたままになっていました。
張り紙一つないのは、なんだかご夫婦っぽいなと、あまり良く知らないけれど思いました。
ディスプレイも開業当時のまま。午後の光に照らされて、あせて、あせて、やわらかい時間を感じて大すきでした。
夜の、オレンジの光に照らされたディスプレイもすきでした。ここでのすきなものをあげたらきりがないのです。
夜のひっそりとした店内でテレビを見上げるおじいちゃん。
ずっと貼られている果物のポスター。
西陽に照らされたお店の果物たち。看板。
夜、ひっそりとしたお店にただよう街灯の光。

「大変だから娘にはつがせないよ。」
おばあちゃんは言っていました。


私は、フォトグラファーだけれどお店を営んでいます。それは、フォトグラファーという見る側だけではなく、町をつくる側として深く関わりたいと思ったから。そして考え知るのは、人の流れや消費、お互い支えて暮らす、生きるということです。しかし町はおおきな力でいとも簡単に、誰かの作ってきた時間すら無かったことにしてしまえます。とても恐ろしいエネルギーも持っているということを感じます。だから店を営んできた歴史なんて、何十年あろうが自分の意志とは関係なく、人の目線からすーっと消えてしまうものだということもよく分かっています。人の記憶は曖昧で薄らいでいくものです。
けれども自分の心にはどうでしょう。店という実態が消えようとも、永く染み付いたものはびっちりと自分をつくっている。自分がいる限り、どこに行こうと自分の歴史は自分自身にあるということ。だからご夫婦が元気ならばそのお店の雰囲気と歴史は続いていくのだと思うと少しほっとするのです。

ただ、そうはいっても考えてしまう。
あの生クリームのブチュっとのったフルーツパッフェ、もう一度食べたいなと。
写真・文 鈴木さや香

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