花は根に鳥は古巣に Vol.003

写真・文 会田法行

 

春先から、心と身体がバラバラに時を刻んでいるような感覚に陥っている。もちろん、世界の多くの人と同じようにコロナ禍での生活の変化も一因なのだが、それだけではない。

 

僕が暮らす新潟県十日町市ではこの冬、歴史的な少雪に見舞われていた。例年であれば2〜3メートルは積もる雪が全く降らず、2月になってようやく少し積もっただけだった。少雪というよりは無雪と言ってもよい時期がつづいた。

 

雪の少ない冬は「雪掘り(雪かき)が楽でいいね」なんて挨拶が交わされるのだが、その分、運動不足にはなるし、雪消えという儀式がなければ春を迎える気分も盛り上がらない。移住たった4年目の僕がこんなことを言うくらいなのだがら、ここで暮らしてきた人々には尚のことだったに違いない。

 

この冬最後の出動となった除雪車を見送るあお。働く車好きの息子にとって除雪車はヒーローだ。
今年は少雪だったため、ほんの少しの雪でも除雪をしてくれた(そうでないと仕事がなくなってしまうため)
(2020年02月28日)

 

 

豪雪地帯とよばれるこの地域では、雪がないと経済が回らなくなる。地元の人の多くが冬期は除雪作業で現金収入を得、スキー場や宿泊施設は観光客を相手に商売をしている。しかし、今年は除雪車が出動したのも数えるほどしかなかったし、スキー場は早々にクローズした。コロナウイルスの感染拡大が深刻化する前から、雪国の経済は大きなダメージを受けていた。

 

やがて春が近づくと今度は、雪解け水を頼りにしている山間部の米農家から「今年は深刻な水不足になるのではないか?」という不安の声もあがった。実際、雪で埋もれて冬場は近づくこともできない僕が借りている棚田に田んぼの様子を見に行ったのも、昨年は4月12日だったのに対し、今年は3月13日だった。しかも農道に残る雪は昨年の方が圧倒的に多かった。

 

雪がとければ山肌から顔を出すフキノトウなどの山菜も今年は早く、ぼやぼやしているうちにシーズンは過ぎ去っていった。僕の心と身体がなんとなくバラバラになりだしたのは、そんな冬のせいだったのかもしれない。

 

そこへ来てのコロナ禍だった。中国の武漢で街が閉鎖されていたころ、また、日本で初めての感染者が確認されたころ、僕らにとっての問題は雪不足であり、コロナウイルスの感染拡大はどこか遠くで起きている出来事にすぎなかった。しかし、そんな十日町市にも徐々にではあるがコロナウイルスの影は忍び寄ってきていた。

 

 

新潟県内で初の感染者が確認された日、僕はあおと木を切り出していた。
集落で伐採された欅を分けてもらい、家族のスプーンを削った。もも撮影(2020年02月29日)

 

家族のスプーンの肖像。
集落内で伐採された大きな欅の枝を分けてもらった
(あおは伐採作業をたまたま見学して大興奮していた)。
ずっとここで生きてきたものが、僕らの身近なところで形を変えて在りつづけるという事実が少し嬉しい。
改めて家族(スプーン)の肖像。(2020年06月05日)

 

十日町市でも2月下旬からトイレットペーパーやマスクが消えだし、2月29日には県内で初めての感染者が確認された。3月7日のことだ。東京に住む姪っ子家族から「スーパーに行ったら米がなくなっていた」との連絡があった。こちらは米農家である(小規模だけれど)。「すぐに送るから」と近所のホームセンターに米を送るための段ボールを買いに行くと、こちらは段ボールが陳列棚から消えていた。

 

「もしや!」と思い、宅配業者に「最近、米の発送多くないですか?」と聞いてみると、「そうなんですよ。新米の時期と同じくらい忙しくて大変です」という答えが返ってきた。近所の人とそんな話をしていると、「米もマスクもトイレットペーパーも、みんなこの辺の年寄りが買って、都会の親戚に送っているんだ」と笑いながら教えてくれた。なんとなくそわそわし始めた周辺でも、まだまだ他人事感があり、僕自身も自身の心配よりも田舎の人々の優しさに感心していた。

 

ただ、この時期(3月初旬)くらいから、わが家では徐々にコロナ対策を始めていた。家族一心配性の妻の提案で、買占めではなく、日常品を普段よりも少しだけ多めに備蓄しておこうということになった。「物がなくなる」という不安からではなく、買い出しに行けない事態を想定したり、買い出しに行く回数を減らすことによって感染リスクを抑えたりしようという思いからだ。

 

ある冬の寒い日に、初めて味噌を仕込んだ。昨年から計画して楽しみにしていた仕込み直前、僕はぎっくり腰になった。
あおはそれを「ビックリ星」と呼んだ。(2020年02月12日)

 

そして、改めてわが家の現状について考えてみると、もちろん米は売るほどあるし、まだまだ仕込んだばかりで食べられないけれど味噌もあるし、春になったら野菜を育てられる畑もある。しかも、雪国には屋内に大きな灯油用のタンクがあり(わが家のものは400リットル)、灯りも暖もとれるし、煮炊きもできる。都市部の暮らしに比べたら、それほど心配することはないね、という結論にいたった。

 

東京などで4月7日に緊急事態宣言が出されてからも、「ここから出なければ感染することもないだろう」という安心感(油断なのかなあ)があった。「ここ」の定義は難しいけれど、最初の感覚では新潟県で、そのうち十日町市内と徐々にエリアは狭くなっていったように思う。僕は非常勤講師として都内の大学院で「報道写真」について教えているのだけれど、講義は早々にオンライン授業に切り替えられ、市外へ出る用事もなくなってしまった。

 

保育園に通い出したあお。登園2日目は、「眠い」と迎えに行ったももに手を引かれながら寝たふり。
翌日から行きたくないと泣き始め、2週目からは楽しそうに通い出した。(2020年04月08日)

 

ちなみに息子のあおが4月7日から保育園に通いだしたこともあり、わが家的にはコロナよりもあおが泣かずに愚図らずに登園できるかということの方が家庭内では重要だった(今ふり返ると、保育園が休園にならなくて本当によかった)。

 

僕らはこのころ、息子の登園中に買い物をすませたり、冬季休業していたコーヒー屋を再開するための準備をしたり、今年度の米づくりも徐々に始めたりしなくてはならなかった。そういう意味では県外へ出る余裕もなく、淡々とした日常が保たれていた。

 

雪解けを待って、コーヒー屋再開の準備。雪囲いを外し、春に備える。(2020年04月01日)

 

雲行きが怪しくなったのは4月16日、新潟県でも緊急事態宣言が出てからだ。

ここでの暮らしのはいわゆる「3密」となるような状況は少ない。依然として都市部と比べて感染のリスクも低いように思われた。しかし、多くの人の心の中に「地域の感染者第一号にだけはなりたくない」という思いが芽生えたように思う。実際、新潟県内の市町村で初めての感染者が確認されると、「どうやら◯◯で感染したらしい」などと噂話が流れるようになった。

 

と同時に、「あいつは週に1回、東京で先生をやっていたよな」とか「仕事でよく県外に出ているらしい」とかいった視線を僕も感じるようになった。高齢者の多い過疎の集落では、「感染=誰かが持ちこむもの」という認識があって(本当にそうだけれど)、とにかく県境を超えた人の動きに敏感になっていった。

 

保育園の送り迎えでの世間話でも「2月以降県外から出ていませんし、今後も予定はありません」とアピールすれば、みなさん安心した顔になる。ももが買い物中に集落の方に「旦那は最近東京行っているのか?」と聞かれれば、集落の草刈りなどでみんなと顔を合わせるときに「しばらく集落にいます」と宣言しなくてはならない。

 

今年は隣町の先輩農家に苗作りを学びにいく。楽しい農耕接触。(2020年04月21日)

 

小さなコミュニティーで密な人間関係があるからこそ、「日本中の大学が休校中だから僕が出かけていないのも分かっているだろう」ではなく、分かってもらうための直接的な言動が必要なんだなぁと痛感した。

 

それと全くの偶然だが4月の中ごろ車を買い替えた(たまたまこの時期の納車となった)。結果、移住前に購入した横浜ナンバーの車が地元の長岡ナンバーの車になった。タイミング的に車が替わったことよりもナンバープレートが替わったことの方が嬉しかった。県外からの人の流れに敏感になりだし、「そのうち車に石でも投げられるんじゃない」という冗談が冗談にならないような状況になりつつあった。ニュースなどで耳にする「県外ナンバー狩り」のような嫌がらせがこの辺でもあったそうだ。

 

 

前日から休業となったコーヒー屋にお知らせを貼りに行く。
(2020年04月25日)

 

春になり、営業を再開したばかりのコーヒー屋の営業自粛も決めた。高齢者の多い地域で暮らす他所者として、県外の方々の来店をコントロールすることはできないし、地元の方々に迷惑(心配)をかけたくないという判断からだ。僕が経営する「コーヒーとタープ」は元々夜8時以降の営業をしていなかったので、休業要請の対象外ではあった。営業をつづけることもできたし、補償対象外でもあったが、近所づきあいを考えると仕方のないことだった。

 

3月の初めころ親戚に米やマスクを送っていた心やさしき田舎の人々も、4月の終わりころにはかなり疑心暗鬼になっていた。ウイルスはもちろんのこと、それ以上に感染者第1号になることを恐れていたように思えた。

 

 

今年のGWは家族と家で過ごした。横浜の祖父母から鯉のぼりが届いた。(2020年05月05日)

 

見えない何かと戦うことはとても難しく恐ろしいことだ。僕はこれまで取材をしてきた様々ことを思い出した。タイの北部チェンマイで、お母さんのお腹のなかでHIVに母子感染して生まれてきた子どもたちを取材したときのことだ。僕が子どもたちと出会ったころ、血中のHIVウイルスを劇的に減らす抗HIV剤という薬が開発され、薬さえ飲んでいればHIVは死に直結するものではなくなりつつあった。それでも、自覚症状のない子どもたちはしばしば薬を飲み忘れ、体調を崩していた。

 

平均寿命5歳と言われていたHIV母子感染孤児たちは、薬のおかげでエイズを発症することなく生きつづけることのできる未来を手に入れた。しかし同時に、社会の無知や偏見とも戦わなくてはならなくなった。

 

タイで出会った少女。病気に差別や偏見、小さな身体で色々なものと闘っていた。(2006年05月01日)

 

取材を通して、いかに世間が他者の痛みに鈍感であるかを痛感した。子どもたちはHIVウイルスを理由に地元の学校に通うことを許されなかった。「あの子とは遊ぶな」と地域からも拒絶された。子どもが普通に遊んでもウイルスが他者に感染することはないにも関わらずだ。親もなく病とともに生きる子どもたちに社会は冷たかった。

 

福島の原発事故でもそうだった。目に見えない放射線を恐れるあまり、福島県民だからという理由だけで嫌な思いをされた方を取材した。

 

目に見えない「コロナウイルス」を前に、「県外ナンバー狩り」だったり、「感染者への誹謗中傷」であったり、その他日常の小さなギスギス感だったり、僕の日常でも、ニュースで見る世界でも、他者の痛みへの鈍感さからくる振る舞いはなかっただろうか。

 

僕が報道写真家を志したのは、他者の痛みを自分の痛みのように感じることのできる写真を撮りたいからだった。僕も妻に言わせれば鈍感さの塊だろうし、後で自分の鈍感さに気がつき、愕然とすることが多々ある。それでも他者の痛みについて想像することだけは忘れたくないと思っている。

 

 

田植え。僕らが見てあげないと誰にも見られずに散ってゆく花に囲まれて。(2020年05月22日)

 

この冬の少雪のおかげで、雪解けという春を迎える儀式もないままに季節は移ろった。気がつけばいつの間にか新緑の季節は終わり、暴力的な勢いで濃さを増す緑に包まれて、僕は今を生きている。

 

4月の下旬からは予定通り、今年で5回目の米づくりも始まった。1年間に数回しか人の来ない、どん詰まりの棚田で独り、土と農耕接触を繰り返す日々だ。冬の終わりの心配が現実のものとなり、今年は深刻な水不足に悩まされている。
毎年県外からの友人の助けで乗り切ってきた田植えも今年はももとふたりだ。

 

 

田植え02。現代版、濱谷浩さんの「裏日本」の世界だね、とももと笑う。とは言え、移住者は好きでやっている事なので悲壮感はない。(2020年05月29日)

 

緊急事態宣言の解かれた都市部では「新しい生活様式」のなかで再び、日常を取り戻そうとしているそうだが、正直、僕には「新しい生活様式」というものがピンと来ない。

 

ここでの農作業中や集落内で立ち話をするとき、マスクをつけている人はほとんどいない(保育園の送り迎えは別だが)。再び、満員になりつつあるという都市部の通勤電車内の現在の緊張感も想像がつかない。きっと、大学のキャンパス内で授業が再開され、東京へ再び出向くようになったとき、僕はまるで初めて訪れる外国で感じるような驚きを東京で体験することになるのかもしれない。

 

 

再開した「コーヒーとタープ」にやって来た農耕馬。太くて大きい。(2020年05月09日)

 

報道カメラマンとして海外での取材を繰り返していたころ、世界には様々な価値観や暮らし方があるんだな、と驚嘆した。しかしコロナ禍を経験した今、日本国内でも想像以上に色々な暮らしの形があるのだと思い知らされた。

 

家の周りの草刈りをしたら、「もう、はなまでかって」とご立腹のあお。日常のなかで巡る喜怒哀楽の感情を写真に残す。(2020年05月26日)

 

 

良し悪しではなく、都市での暮らしと僕らの暮らしは違う。コロナウイルスはその違いをはっきりと浮かび上がらせた。僕が今耕している田は昨年から借りているもので、ここで無農薬・無化学肥料の米を作るのは今年で2回目だ。田植えをしていると昨年より明らかに生き物が増えていることに気がつく。昨年は見かけなかったドジョウやタニシがいて、妻と「ドジョウってどこから来るんだろう」なんて会話をしながら農作業をしている。

 

山の棚田は、同じ田でも水が滲み出るところは身が縮むほど冷たく、陽のあたる溜まりは風呂のように温かい。僕ら家族はここで、小さな命や土の温もりを感じられる幸せを噛みしめている。

 

そんな日常を僕は写真に撮りつづける。この作業だけは変わることはない。きっと去年の春の日常と緊急事態宣言中の日常も、写真だけを見ればあまり変わらないかもしれない。

 

 

お父ちゃんの店に遊びに来て、花でジュースをゲットしようとする息子。仕方ない。お父ちゃんは息子に甘いのである。(2020年05月31日)

 

それでもやっぱり僕の心と体はちぐはぐに動いている。春の訪れが変則的であったからかもしれない。行きたい場所に自由に行けないからかもしれない。会いたい人に会えないからかもしれない。

 

それでも、シャッターを切らなければ猛烈な勢いで過去へと流れてゆくこの瞬間を写真におさめながら、僕は心と身体がシンクロする瞬間を待とうと思う。

 

会田法行(あいだのりゆき)
1972年、横浜生まれ。米・ミズーリ大学報道写真学科を卒業。
朝日新聞社写真部を経て、フリーランスとなり、パレスチナやイラク、広島・長崎、福島などを取材し、主に児童向け写真絵本を制作している。
2016年より、新潟の山間の豪雪地帯で米をつくり、コーヒーを焙煎しながら、消えゆく里山の暮らしを写している。

Instagram:rice_terraces_ao

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