補助46号線沿いの39年続く「はま寿司」のお話。

「寿司屋で3000円、どう?払う?高い?
だってさ、どこ行ったって今どき飲んで食って3000円くらい払うでしょ?
俺はさ、39年目利きして魚仕入れて、寿司屋やってきたのよ。
これ以上安くなんてできないのよ。」
赤い目立つ紙のことを聞いた時、おやっさんはそう言った。

閉店セールと書かれた大きな赤い紙をお店の前に貼って、この通りに1軒だけのお寿司屋さんは、ひっそりと営業していた。
この補助46号線沿いは、もう間もなく両側6メートルずつ拡張工事が入り、住宅やお店がなくなってしまうのだ。

はま寿司のおやっさんと出会ったのは、私がこの道路を撮り歩いていた時、たまたまお話をしたことがきっかけ。39年もの間、この場所で寿司屋を営んできたおやっさんの話をもっと聞きたくなった。
「寿司屋なんてね、これからもっと失くなっちゃうよ。やってけないもん。」そんな事を言って笑う。
「昔はこの辺りは職人の街だったのさ。給料をもらう日に、親方の家で宴会をするんだよね。それで、寿司でもとろうっていうことが多くあって、そりゃ忙しかったから。若い人たちは寿司を食える。親方はかっこつける。これよ。」

封筒に入った給料を手渡ししていた頃、この通りには畳屋さん、大工さん、建具屋さん、瓦屋さん等たくさんの職人のお店があったのだという。けれども、時代と共に工務店が減り、大手の施工会社が家を建てるようになった。職人が家を建てると1年かかるものが、数ヶ月でプレハブが仕上がってしまう。企業の現場の人達は、できあがるとあっという間にこの地を離れていってしまった。職人たちのように宴をすることはほとんどない。そして、給料も手渡しから銀行振込になり、嬉しい日には寿司を食うという文化も消えていった。
「いい時代だったよね。」そんなことをしみじみ話してくれる。

「回転寿司ができたときに、ああもうダメだって本気で思ったね。」
先にテイクアウトの寿司屋のチェーン店ができ、そして次第に回転寿司屋が増えていった。
おやっさんが育てた寿司職人の弟子たちも、みんなチェーン店の方に流れていったという。

「寿司屋ってさ、朝早くの仕入れから、夜遅くの店じまいまで大変だからさ」
「サラリーマンの寿司職人のほうが楽なわけよ」

修行っていう言葉があるように、一つの事柄を学び習得し、修めるというのが寿司職人には必要だった。けれども今修行できる場所は少ないという。
マニュアル化されていないところにこそ、習得するべき「腕」があり、それはただ働くだけでは気づけない部分なのだ。けれどもそれはきっと寿司職人だけの事ではない。

 

39年前。銀座の大手鞄屋さんで働いていたおやっさん。外商として色んな店を回っていたらしい。すると同じように銀座で働いていた奥さんと出会い、ふたりは結婚。3人の子宝に恵まれた。けれども誰も後を継がせなかった。寿司屋は大変だから、苦労はさせたくないとお二人は言った。

おやっさんは、結婚後、突然お店を持ちたいと一大決心をして、寿司の修行を初めた。浅草と入谷のお店で厳しい修行をして数年経った頃、たまたま知人から譲り受けた西小山の店(現店舗)で、自分の寿司屋を始めることになった。その頃、花街としても栄えていたこの界隈は、料亭がたくさんあって寿司を頼む人も多かったという。「町に寿司屋があるって、昔は喜ばれたものだけれどね。」と懐かしむおやっさんは御年76歳。奥さんは70歳。とてもお元気でつやつやだ。

「色んなところから声をかけてもらって、休み無しで働いたからね。」
「町も人も変わったよね。寿司屋、要らなくなっちゃったからね。
でも、きっと、この拡張工事といっしょで、我々が居なくなった後、答えがでるんでしょうね。」
奥さんがそう話す一言は、とても重い気がした。我々が居なくなった頃、つまり、未来の人たちが良かったねと言える決断をしていかなくてはならないよね、がんばってよ。そういってなんだか励まされた気がした。

町が、技術が、暮らしがどんどん変わって、人間同士がコミュニケーションを模索する中で、失ってはならないものまで失わないよう、もっと話をしなくてはならないのではないかな?聞いて、考えて、話して、知って、笑って、泣いて、また話して、気にかけて。
自分のテリトリーだけではなく、もう少し広げて、隣の隣の隣くらいまでの人と、その繰り返しは途絶えてはいけないと、見ず知らずの私に自分の若い頃の話をしてくれる、はま寿司のご夫婦と出会って考えたのでした。

写真・文 鈴木さや香

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