花は根に鳥は古巣に Vol.001

花は根に鳥は古巣に Vol.001

写真・文 会田法行

「稲刈り始めたか?」「終わったか?」「タイヤ替えたか?」「家にネギあるか?」「白菜持っていくか?」「雪ふったか?」「積もったか?」

夏の終わりに「写真と暮らし研究所」から連絡をもらって以来、日々、目まぐるしく変化する季節の挨拶を経て、僕は今、雪を眺めながら原稿を書いている。
豪雪地帯とよばれる新潟県十日町市の山間の集落に移り住んで4度目の冬が始まろうとしている。

1階が雪に埋もれた茅葺の古民家(2018年2月9日)

 

僕は元々新聞社に勤める報道カメラマンだったのだが、31歳のとき、どうしても紛争地に行きたくなり会社を辞め、パレスチナへ飛んだ。
以後、イラクへ行ったり、タイのHIV母子感染孤児の家を尋ねたりしながら写真を撮ってきた。
国内では、広島や長崎、福島で被爆した方々を取材しては、おもに児童向けの写真絵本とよばれる絵本を作ってきた。

そして4年前、冬には3〜5メートルの雪が積もる豪雪地帯で築100年の茅葺の古民家を借り、移り住んだ。
移住2週間後には、妻のお腹のなかに息子のあおがいることが分かった。
「なぁんだ、最初から3人で移り住んで来たんだね」と妻と笑い合った。

息子のあお誕生。予定よりも12日早く、妻ももの臨月の写真を撮ろうと、新潟市の彼女の実家に行ったら生まれてしまった。臨月写真は撮れずじまい(2016年12月7日)

 

茅葺の古民家には上下水道もなく、ホームセンターで黒いホースを800m分も買ってきて山から水を引いた。
家には土間とよばれる泥濘んだ一角があり、そこは台所だった。風呂はなかった。家の中と外を隔てるものが障子のみという窓(?)、戸(?)もあった。
防犯もへったくれもなかった。窓や戸からはすきま風は当然のこと、冬になると雪が吹きこみ、室内に白い小山ができた。

実は1年ほど前、その家から近所の集落へ引っ越してしまったのだが、そんな家で僕らは生活を始めた。
身重の妻と毎日温泉に通い、身体が冷えないうちに布団に潜りこんで…。

妻が里帰り出産のため新潟市の実家にもどった11月のある夕方のことを僕は今でも覚えている。何を覚えているかといえば、台所の寒さをだ。山の水の冷たさをだ。
僕は妻が日々当然のように用意してくれていた晩ご飯を初日から自分で作ることができなかった(大学時代から1人暮らしもしていたし、自炊もしてきたのにだ)。
そこは台所とよべる場所ではなかった。僕は背中を丸めて15キロ離れた最寄りのコンビニまで車を走らせた。新潟で迎える初めての冬が始まるころの話だ。

台所の過酷な環境に、「このままでは妻子に逃げられる」と一念発起して泥濘んだ(冬場は凍土)土間に板を張ってキッチンを作る(2017年2月23日)

 

この度、写真と暮らし研究所から、ここでの暮らしについて撮ったもの書いたものを自由に発表してください、とのご依頼をいただいた。
ここに綴るのは、そんな3人家族の写真日記のようなものだ。今回は自己紹介とここでの生活の始まりについて書きたいと思う。

 

 刈った稲を稲架にかけ天日干しをする。ここでの作業は家族に手伝ってもらうことばかり(2019年9月25日)

 

僕、会田法行(あいだ・のりゆき)はアメリカの大学で報道写真を学び、日本の新聞社で7年間働き、フリーの報道カメラマンとして活動している47歳だ。
ちなみに僕の名刺には現在、報道カメラマン、非常勤講師(都内の大学院と大学で報道写真を教えている)米農家、珈琲焙煎士の肩書きが刷られている。
妻のももは新潟市出身の画家で、息子のあおは3歳になった。(2019年12月現在)

新潟県十日町市の山間の集落と出会い、移住を決めたのは2015年11月のことだ。当時の日記には以下のように綴っている。

 

 2年8ヶ月暮らした茅葺の古民家(2018年6月4日)

 

『始まりの始まり』

小さなころから「田舎」という言葉に憧憬の念を抱いていた。
小学校のころ、「夏休みは田舎に帰る」と言っていた友人が二学期の始業式に真っ黒に日焼けして戻ってくると軽い嫉妬を覚えた。

自分だって市民プールで真っ黒に日焼けしていたにもかかわらず、友人の日焼けた肌には僕の知らない何か秘められた経験が刻まれているような気がしてならなかった。

僕が田舎を想像するとき、それは青空の下に連なる山々の風景だった。谷を流れる小川で魚を捕まえたり、橋の上から飛び込んだり。
それが僕の理想の田舎だった。不思議と海の風景を思い描かなかったのは、海が割と身近な横浜出身だったからかもしれない。
そんな妄想ばかりが膨らむ理想の田舎像は年を重ねても薄れることはなかった。

お世話になりっぱなしの集落のご夫婦。ギブアンドテイクの関係にはなかなかなれない。息子の誕生を報告しに行った日に(2016年12月18日)

 

やがて僕は大人になり、報道カメラマンという職業に就いた。新聞社に就職し、独立した後も、自分の興味の赴くままに撮影へと飛び回った。
特にフリーランスになってからは、イラクやパレスチナなどの紛争地や東ティモールなど、普通の暮らしからはちょっと縁遠い場所で暮らす市井の人々の暮らしにカメラを向けた。
「声なき声を伝えなければ」と意気込んで。

カメラは僕をどこへでも連れて行ってくれる乗り物のようで、僕がシャッターを押す前に僕の背中を押してくれる存在でもあった。

ただ、ふと足を止めたとき、そんな生活が根無し草のように思えることがあった。特に意識し始めたのは、東日本大震災の後だった。
原発事故で苦しむ福島県の人々と取材で出会い、彼ら彼女らがいかに大地に根を張って生きているかを教えられた。
世界を飛び回って情報を発信するより、どこかに根を張りそこから何かを発したいと思うようになった。
どちらが正しいとかではなく、ただ単に自分の人生のなかでそういう風に思うタイミングだったのだろうと思う。

そんな最中、僕は新潟県十日町市と出会った。これからここで根を張って生きていくことにした。(2015年11月8日)

古民家の中には、タイムスリップしたかのような雑誌や新聞の切り抜きが壁に貼ってあった。一番古いものは大正12年の新聞(2016年5月31日)

 

12月4日の日記はこうだ。

『軸足を少しだけずらしてみる。傍観者から体現者へ』

日本から遠く離れた中東で、「こんな所まで来て何のために写真を撮っているの?」と聞かれたことがある。
「あなたが撮った写真で私たちの生活が変わるんですか?」とも。
ストリートチルドレンの写真を撮っていたとき「こんな社会の恥部を撮りやがって。イラクの恥を写した写真を世界にばらまいて楽しいか」と言われて殴られたこともある。

日本に帰ってきたらきたで「(そんなに危ない目にあってまで写真を撮っても戦争がなくならない現実に)写真を撮っていて虚しくありませんか?」と聞かれたことがある。
純粋な目をした中学生に「なんで戦争は起きるんですか?」と尋ねられ、体育館に集まった学生の多くが(そんなアホな質問をしてと)大爆笑するなか、答えに窮したこともある。

人に何かを伝えることって案外と難しいものだ。

それでも、報道カメラマンは写真を撮り、文章を書きつづけ、声なき声を伝えなくてはならない、と思う。
日々のニュースを伝える報道カメラマンにとって大切なことは傍観者であること、公正・中立の立ち位置を守り、ひたすら目の前の日常を見守ることだと信じてきた
(残念ながら日本のジャーナリズムは時に感情的で客観性に欠けているな、と思うこともあるけれど)。

ところが最近、困ったことに傍観者でいることに少し疲れてしまった。なんと甘っちょろい43歳かと思われるかもしれないが、事実なのだから仕方ない。
この矛盾だらけの世の中で、暴力が暴力をうむ世の中で、傍観者でいることもそれなりにエネルギーのいることなのだ。

猫になりたい人(2018年8月29日)

 

以前、『始まりの始まり』というエントリーで東日本大震災以降、自分の人生が根無し草のように思えてしまった、と書いた。
この言葉を少し補足しておこうと思う。

今まで僕は世界で起きていることを撮影し、写真に日本語という言語をのせて発表してきた
(国内で被爆者の方を取材し、英語で原稿を書き海外の通信社を通して海外の媒体で発表したこともあったけれど)。

紛争地などで傍観者として非日常的な時間を過ごすと、その場所を離れるとき傍観者として帰る場所があることを申し訳なく思うことが多々あった。
僕がどんなに苦しい状況を共有しようが、それは家に帰るまでの一瞬の出来事でしかないからだ。
しかし、最後までそこにいられない申し訳なさと同時に、家に帰れば心から寛ぐことができる場所があるという安心感があったのも事実だ。

しかしながら、東日本大震災が起き自分の足下がぐらついた。今まで自分の居場所だと思っていた家が、国が、心から安心して暮らせる場所ではないような気がしたからだ。
今住む場所が本当に自分の居場所であるという確信が持てなくなったのだ。

自分が本当に根を下ろしたい場所はどこなのだろうか?どんな暮らしをして生きてゆきたいのか?
そんな疑問が心の中で沸いてきた。

給湯器のついたキッチンであおを背負いながら料理するもも(2017年7月19日)

 

傍観者として公平・中立な立ち位置を守りながら広島や長崎の被爆者の方々を撮影しても、原発事故で苦しむ福島の方々を撮影しても、個人的な意見を求められれば僕は原発に反対だ。
どのような角度から取材をしても、原発を肯定できる要素なんて見いだせなかった。人間が完全にコントロールすることなどできない危険なものだと言うことしか分からなかった。

それにもかかわらず、僕は消費社会の最先端である東京圏(横浜だけど)に住んでいる。
人間社会が自然を支配しようとしている土地ではなく、自然と共生できるような場所で暮らしてみたい、と思うようになった。

田植えが終わったら、とにかく雑草との闘い。無農薬・無化学肥料で米を育てる(2017年7月6日)

 

そんな自問自答を重ねているうちに出会ったのがこの集落だった。

という訳で、これから僕は自分が正しいと思うこと、やりたいことを実践してみようと思う。
別に革命を起こすわけでも、何かから逃げるわけでも、写真を撮らなくなるわけでもないけれど、傍観者という立場から少しだけ軸足をずらして体現者になってみたくなったのだ。

命の尊さだったり、人の命には上も下もないということだったり、人は自然を支配するのではなく単なる自然の一部としてギブアンドテイクの関係を保ちながら共生していかなくてはならないということだったり。
イラクやパレスチナ、福島で感じて発信してきたことを新潟でもしながら生きてゆこうかな、と思う。
まあ、傍観者だろうが体現者だろうが、詰まるところ想いは一緒なのでしょうが。

鎮守の杜に守られながら、僕もすこし大地に根を生やしてみたい。
移住を前にした所信表明なのでした。ちゃんちゃん。(日記終わり)

集落のお宮さんで盆踊りの準備。その昔から引き継がれている生活を残したい(2017年8月14日)

 

今、改めて日記を読み返してみると、僕はとにかくどこかに根を張りたかったのと、ジャーナリストとして傍観者でいることに疲れていたのがよく分かる。

よく「なんで新潟なんですか?」と聞かれるが、答えは簡単で「妻の出身県だから」がそれだ。

僕らはそれまで新潟市の妻の実家へ行くとき、新潟県内は高速道路をおりて一般道を走ることが多かった。
高速道路だとあまりにも早く景色が流れ去ってしまうため、せっかくご縁のできた新潟県を僕なりに感じることができなかったのだ。
そして、時には遠回りしながら一般道を走るうちに出会った十日町市エリアを僕が勝手に気に入ってしまったのだ。

 アンリ・カルティエ・ブレッソンさんへのオマージュのつもり=1972年にアルメニアで子どもを片手で掲げる父の写真を撮っている(2018年2月6日)

 

東ティモールのように棚田はあるし、僕の好きな写真家の星野道夫さんが暮らしていたアラスカのように冬は厳しそうだし。なんだか根を張れそうだな、と勝手に盛り上がっていたのだ。

妻に言わせれば、新潟市の海文化と十日町市の山文化は全然別物だから、「妻の出身県だから」と言われても困ると…。
それもで、十日町市には、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」というイベントがあり、妻も友人のアーティストの手伝いで足繁く通ったことがあるなど、それなりに思い入れのある場所でもあった。

ももは海辺で育ったので、山の文化には馴染みがあまりないのだとか。同じ新潟県内なのに(2019年10月16日)

 

こうして僕らの新潟生活は始まった。
この土地に根を張るために、田んぼを借りて米を作ることにした。茅葺屋根を維持するために、秋にはススキを刈り、春には屋根を葺くことを学ぶことにした。

そして今、4度目の冬を迎えようとしている。ここでの3年半の暮らしのなかで、今もつづけていること、色々と考えて今ではつづけていないこと、新たに始めたことなどがある。

僕はきっといつまで経っても、ここでは「よそ者」でしか在り得ないだろうけれど、それでも少しずつでもこの大地に根が張れたらな、と思っている。

あおを背中に散歩。雪の多い日は除雪が間に合わず車で出かけられないので散歩するしかやることがない(2018年2月12日)

 

最後に、「なぜそんな不便をしてまで茅葺の古民家に引っ越したのか」と聞かれれば、答えは簡単。
「フォトジェニックだから!」に尽きる。まあ、あまり深く物事を考えない性格なのである。

会田法行(あいだのりゆき)
1972年、横浜生まれ。米・ミズーリ大学報道写真学科を卒業。
朝日新聞社写真部を経て、フリーランスとなり、パレスチナやイラク、広島・長崎、福島などを取材し、主に児童向け写真絵本を制作している。
2016年より、新潟の山間の豪雪地帯で米をつくり、コーヒーを焙煎しながら、消えゆく里山の暮らしを写している。

Instagram:rice_terraces_ao

 

 

 

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